4 第三回目の移転


明治二十年頃の西来寺

明治二十年頃の西来寺

慶長5年(1600)9月関ヶ原の戦いがおこりましたが、その前哨戦で西軍が津城を攻撃し、津城主富田信高は籠城しましたが、西軍が西来寺を陣所としたため、城兵が西軍の先鋒をくじこうとして西来寺に火を放ちました。この時の兵火のため移転が終って間もない西来寺はほとんど炎上し、ただ龍神木で造られた山門だけが残りました。

その炎の中から山内龍蔵院の仙桂とその弟子仙里の二人が本尊阿弥陀佛立像一躯(く)、真盛上人の御遺物、盛品上人の念持彿であった阿弥陀四聖の図、その他の重宝を取り出し、山門とともに死守しましたが力およばず、焼死してしまいました。

慶長6年(1601)、津城主から乙部の土地百間四方が下付され再興することになりました。現在の境内はその一部です。

慶長10年(1605)本堂の建立にとりかかり大檀越(だんおつ)長野蔵之烝(くらのじょう)寄進の丈六阿弥陀如来座像を御本尊として安置し慶長16(1611)年に完成しました。本堂の大きさは十一間四面でした。

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